2019年度活動報告 イケベケンタロウ

※掲載している音源は制作者の都合で削除する場合があります。ご了承ください。
また、音源を再生する際は音量にご注意ください。

 

イケベです。音楽を作っています。
当初、入居者のプロフィールには「ユースワーカー・画家・音楽家」と書いていました。肩書きはどうでもよいというのが本音ですが、都合上そう書きました。

1. 技術と倫理について

まず、「ユースワーカー」の話をします。
「ユースワーカー」とは、ひきこもり、無業、発達障害、経済的困窮など社会生活をする上で様々な困難を抱えた青少年の支援に携わる人たちのことです。
横浜で3年ほど、経済状況などの困難を抱えた中高生の支援をしていました。

わたし自身持病があり、引きこもっていた時期があります。スタッフの中にも困難を抱えた経験のある人たちがいました。
「普通」の人が「当たり前」にできていることができない、できる環境にない、できなくなってしまった、自分自身もそうでありながら、色んな背景のある子たちと向き合い、成長を見守る仕事でした。
例えば中学校で発展途上国から日本にやってきてとりあえず高校に入ることはできた、という子がいるとします。

日本の大学に進学するつもりであるけれど、学力的に不可能だと学校の先生から言われた。
金銭的にも行くことが難しい。多額の奨学金を借りるのはリスクが高い。
勉強を教える用意はあるけれど、あまり本気ではなさそうだ。
他にもいじめなどの課題を抱えている可能性がある。

さてどうしたものか、というのを行政や学校と連携しながら1年くらい、ケースによっては3年以上かけてやっていきます。ユースワーカーには臨床心理士やキャリアカウンセラーのような資格を持っている人もいましたが、資格の有無はほとんど関係なくて、スタッフがそれぞれの視点を持ち寄って被支援者を多面的に見ることが求められました。

「勉強する?」と言うときもあれば、「勉強しなくていいよ」と言うときもあれば、「20分勉強したらババ抜きしよう」と言うときもありました。
相手を否定しないこと、求められていないのにアドバイスしないこと、同情心を持たないこと、どんな結論もカッコにいれておくこと、自分事として捉えてもよいが「切断」を忘れないこと、というのが職業上の倫理であり技術でした。

ここ別府でもユースワーカーとして活動できる場を探しているのですが、昨年度はご縁がありませんでした。関わってきた子たちとのことは今でも大切で、以下に書いていることもその経験の影響下にあります。

 

2. 描かなくなった絵のこと

大学を辞めて画学校に入り、それから数年間、病を得るまで風景画を主に描いていました。社会復帰後も断続的に制作を続けていました。清島アパート滞在当初は油彩による人物画を模索していましたが、ある時期から音楽的な関心事が増えたので、制作を中断しました。

ベップアートマンスでは絵画の最後の企画として、「誰かがキャンバスに描いた絵をノートにスケッチしてもらい、その続きをキャンバスに描いてもらう」という展示をしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

既に書かれた内容から環境問題へのメッセージを読み取る人、ケベス祭を思い出す人、あるモチーフを「強すぎるイメージ」として捉えてそれを弱めようとする人、色んな人がいて楽しい展示でした。
わたしは何も手を動かさなかったのですが、なぜか自分が描いてきた絵に近いものを感じました。イメージの奥にある呼吸のようなもので繋がっているとしたら、と想像します。またやってみてもいいなと思います。
音楽制作の手法を応用したものをやってもいいかなとか、言葉でやってみようかな。
参加してくださった方、ありがとうございました。

 

3. パフェの中でプリンとヨーグルトは共存できるのか

最近は調和についてよく考えます。
昨年度はノイズのライブに何度か足を運びました。大分にはP.O.V.さんをはじめとして素晴らしいノイズミュージシャンたちがいることを知りました。
滝のような轟音に身をゆだねていると、かえって気持ちよくなって眠くなることもありました。
雑な言い方になりますが、ドレミの音階というのは、無限にある周波数をある規則に従って分割した目印のようなものであり、それを無視して様々な周波数の音を重ねるとノイズになります。

ドレミはある種の制度のようなもので、和音、不協和音というのも制度の中での出来事です。たとえばロックやヒップホップは、ビートという縛りの中で不協和音を肯定する側面があります。音楽的にも制度からの逸脱を許容する表現だということができると思います。気持ちの良さと、かっこよさと、自由であることの距離についても考えたいところですが、それは別の機会にします。

ここで、ノイズと楽音をかけ合わせた音源を載せます。

【音量にご注意ください】

 

最近は、「日本で生まれ育ち日本語で生活している人たちにとって、音楽的な調和とは何か」ということを模索しています。楽音的な調和よりも間合いの調和の方が優先されるのではないか、という仮説が頭の中にあります。
更に、一定のリズムの縛りの中でそれは成り立つのだろうかという疑問があり、これは今後の研究課題にしたいです。

別府のカレーやmomoさんでは、木村さんという方が音を使った遊びを幾つか教えてくださいました。
木村さんの手法を応用して、詩の朗読会イベントを2回行いました。次の音源では、声明(しょうみょう)の手法をもじって、ハモることを全く意識せずにただ声を重ねました。

【音量にご注意ください】

 

この一年間、たくさんの人と知り合えたこと、出会えたことに感謝しています。
落ち込んだりもしますが、いまここにいることはラッキーなことだという感覚を忘れずに生きていけたらと思います。
来年度はいませんが、わたしの34年くらいの付き合いになる親友のチャック・オープンさんが入居するそうなので、どうぞよろしくお願いします。

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